「所詮」と「所謂」の違いとは?結論と世評の使い分けを解説

「所詮」と「所謂」、どちらも「所」から始まる漢字二文字の言葉ですが、読み方も意味も全く異なります。

所詮、私は凡人だ」と諦めるときに使うのはどちらでしょうか? あるいは、「彼が所謂エリートだ」と紹介するときは?

実は、この二つは「最終的な結論(ネガティブな場合が多い)」を指すか、「世間で言われている通称」を指すかという点で明確に使い分けられます。

何より、読み方が全く違うため、誤読すると恥ずかしい思いをしてしまう代表的な言葉でもあります。

この記事を読めば、それぞれの言葉が持つ本来の意味や読み方、そして文脈に応じた適切な使い分けがスッキリと理解でき、もう漢字を見てフリーズすることはありません。

それでは、まず最も重要な違いから詳しく見ていきましょう。

結論:一覧表でわかる「所詮」と「所謂」の最も重要な違い

【要点】

「所詮」は「しょせん」と読み、「結局」「どうせ」といった最終的な帰結(特に諦めや謙遜)を表します。「所謂」は「いわゆる」と読み、「世間で言うところの」「俗に言う」といった通称や定義の紹介を表します。

まず、結論からお伝えしますね。

この二つの言葉の決定的な違いを、以下の表にまとめました。

これさえ押さえれば、基本的な使い分けはバッチリです。

項目所詮(しょせん)所謂(いわゆる)
読み方しょせんいわゆる
中心的な意味結局は、つまるところ世間で言われている、俗に言う
ニュアンスネガティブ(諦め・卑下)フラット(説明・紹介)
言い換えどうせ、たかが世に言う、いわば

一番大切なポイントは、「所詮」は「どうせ〜だ」という結論に使い、「所謂」は「みんなが言っている〜だ」という紹介に使うということです。

また、「所謂」を「しょい」や「しょせん」と読み間違えないように注意しましょう。

なぜ違う?漢字の成り立ち(語源)からイメージを掴む

【要点】

「詮」は「あきらかにする」を意味し、「所詮」は「突き詰めた結果(=結局)」を表します。「謂」は「いう」を意味し、「所謂」は漢文の「謂ゆる所(世の人の言うところ)」に由来します。

なぜこの二つの言葉に意味の違いが生まれるのか、漢字の成り立ちや語源を紐解くと、その理由がよくわかりますよ。

「所詮」の成り立ち:「詮」が表す“究極の結果”

「所詮」は、もともと仏教用語です。

「詮(せん)」という漢字は、「あきらかにする」「究める」という意味を持ちます。

「所詮」は「詮(あき)らめられる所」、つまり「物事を突き詰めて考えた結果、行き着くところ」を意味しました。

そこから転じて、「結局のところ」「つまるところ」という意味になりました。

現代では、「いろいろ期待したり努力したりしても、最終的な結果(限界)はこうだ」という、少し諦めや開き直りを含んだ文脈で使われることが多くなっています。

「所謂」の成り立ち:「謂」が表す“世間の呼び名”

「所謂」は、漢文の訓読(中国語を日本語として読むこと)に由来します。

「謂」は「謂(い)う」、つまり「言う」や「評価する」という意味です。

「所謂」は漢文で「所謂(いゆる・ところ)」と読み下し、「(世間の人々が)言うところの」という意味になります。

これが変化して「いわゆる」という読み方として定着しました。

つまり、「世間で一般的にこう呼ばれている」「俗に言う〇〇とはこのことだ」と、ある名称や概念を紹介する際に使う言葉なのです。

具体的な例文で使い方をマスターする

【要点】

自分の限界や本質を認める(諦める)ときは「所詮」、名称や通称を紹介するときは「所謂」を使います。「所詮」はネガティブな文脈が多く、「所謂」は説明的な文脈で使われます。

言葉の違いは、具体的な例文で確認するのが一番ですよね。

ビジネスと日常、そして間違いやすいNG例を見ていきましょう。

「所詮」を使った例文

「結局は~に過ぎない」という、諦めや謙遜、あるいは相手を見下すニュアンスで使います。

【OK例文】

  • どんなに着飾っても、所詮(しょせん)中身は変わらない。(結局は)
  • 人間なんて、所詮ひとりで生きていくものだ。(諦観)
  • 所詮かなわぬ夢だと分かっている。(どうせ)
  • 我々は所詮、下請けの立場ですから。(謙遜または自嘲)

「所謂」を使った例文

「世間で言うところの」「俗に言う」という意味で、名詞の前に付けて使います。

【OK例文】

  • 彼は所謂(いわゆる)「ゆとり世代」だ。(世間で言うところの)
  • これが所謂、インサイダー取引というやつですか?(俗に言う)
  • 彼女はクラスの所謂「高嶺の花」だった。
  • 専門用語で説明するより、所謂「アレ」と言った方が通じる。

これはNG!間違えやすい使い方

読み間違いや、文脈の取り違えに注意が必要です。

  • 【NG】彼は所詮(いわゆる)天才肌だ。
  • 【OK】彼は所謂(いわゆる)天才肌だ。

「世間で言うところの天才肌」と言いたい場合は「所謂」です。「所詮」と書くと「あいつは結局、天才肌(だから努力を知らない)」のような、少し批判的なニュアンスになってしまいます。

  • 【NG】どんなに頑張っても、所謂(しょせん)無理だ。
  • 【OK】どんなに頑張っても、所詮(しょせん)無理だ。

「結局は無理だ」という結論を述べる場合は「所詮」を使います。「所謂」には「結局」という意味はありません。

【応用編】似ている言葉「所以」との違いは?

【要点】

「所以(ゆえん)」は「理由」「わけ」「いわれ」を意味します。「所」で始まる熟語として「所詮」「所謂」と並んで難読語の代表格ですが、意味は全く異なります。

「所詮」「所謂」と同じく、「所」から始まる難読漢字に「所以(ゆえん)」があります。

これも整理しておくと、教養の幅が広がりますよ。

「所以(ゆえん)」は、「理由」や「根拠」を意味します。

「彼がリーダーたる所以(理由)はここにある」のように使います。

これも漢文の「所以(もちうる・ところ=手段・理由)」から来た読み方です。

  • 所詮(しょせん):結局、どうせ(結論)
  • 所謂(いわゆる):世に言う(通称)
  • 所以(ゆえん):理由、わけ(根拠)

「所」シリーズの漢字は、漢文由来の読み方が多いので、セットで覚えておくと便利ですね。

「所詮」と「所謂」の違いを学術的に解説

【要点】

仏教用語としての「所詮」は「能詮(のうせん)」と対になり、言葉によって表される「意味内容そのもの」を指します。漢文法的な「所謂」は連体修飾語として機能し、名詞句を作ります。

ここでは少し視点を変えて、仏教哲学や漢文法の観点から深掘りしてみましょう。

仏教論理学(因明)において、「所詮(しょせん)」は非常に重要な概念です。

言葉や文字そのものを「能詮(のうせん=説明するもの)」と呼び、それによって明らかにされる意味や対象を「所詮(しょせん=説明されるもの)」と呼びます。

つまり、本来は「言葉が指し示す究極の真理」のような、ポジティブで深い意味を持っていたのです。

それが時代とともに「行き着く先=結局・結末」となり、さらに「結局たいしたことない」というネガティブなニュアンスに変化していったのは興味深いですね。

一方、「所謂」は漢文法において、「所」+動詞「謂」で名詞句を作る構造です。

「謂(い)う所の(もの)」、すなわち「人々が言っている対象」という意味になります。

この「いわゆる」という読み方は、日本独自に定着した訓読の慣習であり、現代日本語においては副詞的(連体詞的)に機能する独特な言葉です。

僕が「所謂」を「しょせん」と読んで赤っ恥をかいた体験談

僕も学生時代、この漢字の読み間違いで、顔から火が出るような思いをしたことがあります。

ゼミの発表で、レジュメを読み上げていたときのことです。文章の中に「これは所謂、〇〇効果と呼ばれる現象で…」という一文がありました。

僕は自信満々にこう読み上げました。

「これはショセン、〇〇効果と呼ばれる現象で…」

その瞬間、教授が怪訝な顔をして「君、その現象をバカにしてるのかね?」と突っ込んできました。

「えっ? いえ、そんなつもりは…」と狼狽える僕に、隣の友人が小声でささやきました。

「おい、それ『いわゆる』だよ…」

教室中が静まり返り、その後の僕の発表がグダグダになったのは言うまでもありません。

「所謂」を「所詮」と読み間違えると、単なる読み間違いではなく、対象を「大したことない」と見下しているような文脈になってしまうのです。

この失敗から、「所」で始まる漢字は要注意!と心に刻み込みました。

漢字の読み一つで、意図しない失礼な態度をとってしまうことがある。言葉の怖さを痛感した出来事でした。

「所詮」と「所謂」に関するよくある質問

Q. 「所謂」を「しょい」と読むのは間違いですか?

A. はい、現代日本語としては間違いです。漢文の音読みとして無理やり読めば「しょい」となりますが、「所謂」という熟語は「いわゆる」と読むのが一般的であり正解です。「しょい」と読んでも通じないことがほとんどでしょう。

Q. 「所詮」は目上の人に使っても大丈夫ですか?

A. 基本的には避けたほうが無難です。「所詮」には「どうせ大したことない」という諦めや軽視のニュアンスが含まれることが多いため、自分のことについて謙遜して使う(「私は所詮、若輩者ですので」)場合は許容されますが、相手や相手の関わる事柄に対して使うと失礼に当たります。

Q. 「所詮」の類語には何がありますか?

A. 「結局」「つまり」「要するに」「畢竟(ひっきょう)」などがあります。ただし、「所詮」ほどネガティブなニュアンスが強くない言葉もあるので、文脈によって使い分ける必要があります。「畢竟」は「所詮」と同じく「究極のところ」という意味の硬い表現です。

「所詮」と「所謂」の違いのまとめ

「所詮」と「所謂」の違い、スッキリご理解いただけたでしょうか。

最後に、この記事のポイントをまとめておきますね。

  1. 読み方の違い:「所詮」は「しょせん」、「所謂」は「いわゆる」。
  2. 意味の違い:「所詮」は「結局・どうせ」、「所謂」は「世間で言う」。
  3. ニュアンス:「所詮」はネガティブ(諦め)、「所謂」はフラット(紹介)。
  4. 注意点:「所謂」を「しょせん」と読むと、文脈が「見下し」に変わってしまう。

「所詮」は結論を急ぐ言葉、「所謂」は定義を繋ぐ言葉、そんな風にイメージしておくと良いかもしれません。

この違いをしっかりと理解していれば、人前での発表や文章作成でも、恥をかくことなく堂々と表現できるはずです。

これからは自信を持って、的確な言葉を選んでいきましょう。さらに言葉の使い分けについて知りたい方は、漢字の使い分けの違いまとめの記事も参考にしてみてください。

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